社会は、増大する繁殖力の豊かさによって幻惑され、終わりなき過程の円滑な作用にとらえられる。このような社会は、もはやそれ自身の空虚さを認めることができない。つまり「労働が終わった後にも持続する、なにか永続的な主体の中に、自らを固定したり、実現したりしない」生命の空虚さを認めることができない。危険はこの点にある。
生煮えになった料理を前に野菜を罵倒する人は頭がおかしいけれど、「教育のために」罵倒を運用しようとする人は、往々にしてそれをやらかす。
人生での成功云々は、完全にランダムに決まっているわけではないにせよ、かなりの部分が運で決まっています。もしあなたが成功をおさめることができているとしたら、それはあなたの運がよかったからなのです。そして運がよかった人には責務が生じます。運がよかった人は、運が悪かった人に対して、いわば「借り」があるわけです。これは非常に忘れやすいことなので強調しておきたいのです。
征服は、統治に比べれば、はるかにたやすい。梃子の長さが十分あれば、指一本で地球をゆるがすこともできようが、これをささえるとなると、ヘラクレスの肩が必要だ。
「政治が決める」のではなく、「政治で決める」。「政治を使いこなす」という方向へ意識を転換していったほうがいい
アメリカでも民主党と共和党には「コークとペプシの差しかない」と言われることがあります
過度の責任を求められたら、自分がそれに見合うだけの給与や待遇を受けているかを、一度考えてみたほうがいい。対価がお金ではなく「やりがい」や「成長」で払われているのだとしたら、それは間違いなく騙されている。
人間も個体ではなく、行為と関係と役割の連続体だと考えましょう。政治家は「政治をしている人」、活動家は「活動をしている人」、リーダーは「いまリーダーをやっている人」…ということです。(中略)
分担は、その人に固有の属性ではなく、役割です。
もともとヨーロッパでは、環境保護運動は保守層がやるものでした。ところが「緑の党」には、保守的な人も左翼的な思想の持ち主もいる。そこで「君たちは右なのか左なのか」という質問がでました。そのとき、「われわれは右でも左でもない、前だ」と答えたというのです。
逆に言うと、「私は社会と関係ありません」とか「私が動いても社会は変わらない」とかいうのは、悲観でも楽観でもなく、たんに不可能です。自分が存在して、歩いたり働いたり話したりすれば、関係に影響をおよぼし、社会を変えてしまいます。政治に無関心な人、不満があっても動こうとしない人が増えれば、確実に社会を変えます。自分が望む方向に変えるように行動するか、自分が望まない方向に変えてしまう行動をとり続けるかの違いです。
われわれは二重に道理に叶ってはいるが、自らの非を認めよう。なぜなら、われわれが生産を増し、原価を下げようと努めることにおいて合理的であるというのは、道理に叶っている。しかし、われわれが消し去ろうと努力している不完全さを愛おしむことにおいてもまた、われわれは道理に叶っている。社会生活というものは、それに香気を与えるものを打ち壊すことで成り立っている。
首長になる人間がいるのは、どのような人間集団においても、仲間とは違って、特権そのものを愛好し、責任をもつということに惹きつけられ、そして公けの仕事の負担そのものが報酬であるような人間がいるからである
(中略)
この差異はむしろ、あらゆる社会がそれによって構築されている人間の心理に関わる、未加工の材料の一部を成しているのである。
You will make new friends, but your old friends are your best friends. It takes a little bit of work.
われわれは、著名な例に惑わされ、「必要は発明の母」という錯覚におちいっている。ところが実際の発明の多くは、人間の好奇心の産物であって、何か特定のものを作りだそうとして生みだされたわけではない。
良いこと書いてあるんだけど、なんだかんだで、少年愛がらみの記述に目がいってしまう、ついつい。普遍的な価値について語ろうとするギリシア人たちが、こと「その話題」のときだけは、特殊な文化的背景にもとづく性癖を擁護しまくりというのがね。それが、苦笑をとおりこして、可愛くみえてきた。
何度も自転車で辿ったことのある街道が、通学していた学校の周辺が、お出かけで歩いたことのある街並が、どうして「この形」なのか。ちょっとでも不思議に思ったことがある人なら、この本を読んでスッキリすることうけあい。 東京湾北側の自然地形を見渡すことからはじまり、江戸の町の成立、元禄以降の発展、明治維新以降の大名屋敷・長屋地域それぞれの土地の使われ方、関東大震災からの復興政策、戦後の経済発展と土地利用。これだけ追うと、東京の町が読み解ける。逆に言えば、これだけ歴史文脈を把握しなければ、東京の街の文法は理解できない。ヨーロッパの街と違って、雑然と感じられるのは、トップダウンの秩序がしかれていないから。ごちゃごちゃしているといって批判されてることもあるけれど、この本を読めば、その「ごちゃごちゃ」の面白さに気づけるようになるはず。